6回目のあの日
戦後72年間、焼野原であった日本は高度経済成長を遂げ、1955〜73年の約20年にわたり、経済成長率(実質)年平均10%前後の高い水準で成長を続けた。その後には東京オリンピック効果。人々も夢と希望に溢れ、夢の乗り物「新幹線」が走り始め各都市も繁栄し平穏な日々を送っていた矢先。。
2011年のあの東日本大震災はそんな人々や全てに打撃を与え経済すらをも飲み込んだ。幸いに私の周辺には被害は無かったが、震災により関わっていたオペラ公演は中止に。来日していた海外の音楽家が震災後すぐに日本を離れる中、世界的な大指揮者 ズビン・メータ氏は敢えてそんな弱った日本に来日し、私達は彼の指令により集められ東京にて震災の為の「チャリティーコンサート」にてベートーヴェンの第九を公演した。
私も計画停電時など暗闇の中で 何か被災地の為に出来ないものか。何か力になれないか、などの葛藤があった。行方不明の方々の捜索や瓦礫の問題、ボランティアではいくらでも仕事があるが、音楽家として何かする為には傷付き、茫然自失の方々の前で音楽を演奏をして良いものか、歯痒い思いをしながら数年。
震災から3年経つ頃にようやく宮城県の沿岸部のある街と連絡を取り当時の仮設住宅や小学校体育館などを回り始めた。当初は津波により建物どころか街にピアノやオルガンが無くなってしまい、ア・カペラ(無伴奏)でと思っていたものの、楽器店の知人に相談したところ、何とピアノを街や施設に寄付をしようとのことで、ピアノと共に被災地に降りた。
演奏をすることにより被災された方々は当時のことを更に思い出す。選曲などシビアに考えなければならない事は山積みであったが容赦無く歌い続けた。児童館では津波で両親を失った子供たちが津波の絵を描いている姿には涙せずにいられず被災地は復興も愚か人々の心は癒しを求めている。そんな印象を受けた。
あの日から6年。まだまだ復興には時間も金銭的にも厳しい状況下、被災された方々の心の復興を祈られずにはおられない。まだ発見されない行方不明の方々の一刻も早い発見も祈るばかりである。
今年も2017年3月11日 午後2時46分 北の方角へ向かい静動にして祈りたい。